こんばんは、はくです。
今回は、元々書きたかったテーマとは違うんですが、急遽、タイトルになっている「ものを大切にするということ」で書かせていただきます。
とはいえ、正解の無いものなので「そんな価値観もあるよね。俺は違うけどな!」ぐらいの気持ちで読んでもらえたら嬉しいです。
形から入る
ことの発端は先日、自分と親交のあるツイッターの皆さんとはじめてやったツイキャスでの話。
若い審判員(ここでは中・高生レフェリーを指します)の「形から入ることは良い事か?」ということ。
キャス主のトンさんやインストラクターの資格をお持ちのlawsさんは肯定的なご意見でした。
特にlawsさんの「Jリーグを担当する審判員が身につけている道具を同じ様に身に付けたいと思っているんでしょう。それは意識の高さの現れだからしっかり褒めて評価しないと。」って話は、確かにそうだよなと。
若くても見た目で「しっかりしている」と思われた方がゲームコントロールにも繋がりますし。
というか自分もそうだったと思います。
自分が審判員をはじめた時は、Jリーグのレフェリーウェアもプーマの時代で、審判員の方々が着ていたウェアはカッコよくて、履いていた「パラメヒコ」には随分と憧れを持ったものでした。
ただ、当時は自分も高校生で、ごく一般の家庭でしたがお小遣いで買えるほどの余裕は無くて、高校に黙ってこっそりとバイトしてお金を貯めて買った記憶があります。もちろん審判着も。アシスタントフラッグも個人で持つのはまだまだ少ない時代でしたが、近くのスポーツ店に行ってわざわざ注文してまで買いました。
当時から審判活動には両親は協力的(というか理解的)ではありましたが、お金の部分までは援助をしませんでしたし求めませんでした。
というのも、当時、自分の事を気にかけてくれている審判委員会のお世話担当の方が、
「苦労して、手に入れた審判道具には神様がつくんだよ。」
と言った言葉が妙に心に残ったからでした。
お節介でたまにクサイ事を言う方でしたが、その言葉はなんだか心に残ってました。
時は過ぎて社会人になり、自分で働いたお金で好きなメーカーの審判道具やウェア、シューズも手に入れられる様になりました。
一時は「はくは何でも持っている、何か忘れても、はくに頼めば大丈夫」とまで言われるほど、いろんなものを買い漁っていました。ほんと。
というか、それも含めて審判が楽しくなっちゃうんですよね。
でもね、確実に余っちゃうんです。次第に年に数回、着るか着ないかレベルの審判着も出てきましたし、履かないシューズも増えました。
そんな道具を見渡していると、ふと「苦労して、手に入れた審判道具には神様がつくんだよ。」という言葉を思い出しました。
それからは、余っていた道具は全て地元のチームや後輩レフェリー達へ譲り、必要最小限の道具しか購入しなくなりました。
その分、愛着は湧く様になった気がしています。今でも「このレフェリーウェアは乱闘騒ぎの時に着ていたウェアだ」とか「選手から褒められた試合の時に持っていたカードだ」とかたくさんの思い出を思い出すことが出来ます。
今思えば、お世話係のその人は、そんな事を言いたかったんだろうなと思っています。
当たり前の環境
現在では、日本協会も若手の育成に力を入れており、高校生から全国大会の研修や、2級審判員の取得、アカデミー研修など、自分の頃とは大きく環境も改善されてきました。
情報も多く、検索すればいろんな事を入手できる時代になったと思います。というか、今はそれが当たり前ですからね。
ただ、それに比例して気になるようになったのが、「当たり前の環境を当たり前と思わなくなった」審判員が増えるようになったこと。
ネットが破れていても、ラインが曲がっていても「運営のせい」だとか「古いの使っているからね」と耳にすることも増えてきたように感じます。
物が溢れ、交換が効くようになった昨今、当たり前が当たり前過ぎて、感謝することが少なくなってきているんじゃ無いかって思うときがあります。
もちろん、そんなことはごく少数の方だけなんでしょうけど。
Jリーグ担当審判員と同じ様に、毎年毎年、スパイクやウェア、時計を買い換える若い審判員が増えましたが、ただそれがファッション感覚で毎年新しく購入している方を見るとたまにそんな事を思ったりすることがあります。
…こんな事を大真面目に話せば、若い子達からは古いとか時代錯誤だとか言われるんでしょうけど。
何だかどうしてもそんな事を思って、書きたくなって書いた次第です。
ただね、若いレフェリーを見ていると、そんなところも含めてホンッッッッッッッッッットに羨ましいなと思うので、縁あって手にしたものだからどうか愛着と感謝を持って審判してほしいなと思うのです。
…何だか書いてたら、逝く間際の遺言みたいな文章になっちゃいましたな…笑
今日はここまで。